補助席について
撮影の舞台となったのは成城大学のキャンパス。これは監督の熊澤が成城大学(経済学部)出身であることと、自身が各大学のキャンパスをくまなく回った結果「この映画のロケは成城大学しか考えられない」と思ったからだそう。
熊澤は成城学園側に(これまで前例のない)キャンパス内ロケを申請し、映画研究会などの後押しもあり承認へとこぎつけた。撮影は2006年5月のゴールデンウィークを利用して、集中的に敢行したといわれている。2人が屋上にいるシーンは成城大学にある部室の屋根であり、普段は上ることができない。
劇中に登場し、重要な役割を担う一万円札の指輪の作り方がパンフレットの中に記載されている。
また、映画の中で主人公たちが自主映画の撮影で使われた公園や、歩いていた土手、
外国為替
先のレコード店などは、岩井俊二作品では有名となった「リリイ・シュシュのすべて」や「花とアリス」などで多数ロケに使われた栃木県足利市である。
遠山杏(広末涼子)は放送部に所属する高校2年生。ある日、カメラの練習中に、同じ高校の転校生・片岡徹(圓島努)に声をかけられ「一緒に映画を撮ろう」と誘われる。片岡徹は自らを宇宙人チュンセと名乗り、遠山杏をポウセと名付ける。
そして、2人は夏休みを使って一緒に映画を撮り始める。そんな中、徹は突然オーストラリアに転校してしまう・・・。
本作は脚本を担当した笠原和夫が、当日の天気まで記した巻物のように長い年表を作成した上で、当時の時系列や状況を徹底して調査・取材を行い、膨大な資料を収集した上で脚本を執筆した。(その時の状況や苦労話、逸話などは、笠原の回顧録『昭和の劇』に詳しく記されている)
乃木希典の描写については司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』を参考にしたと思われる。愚将としての側面を強調した表現がされている。この映画により『乃木愚将論』が広く知られる理由の1つとされている(この説については様々な異論・反論もある。詳しくは乃木希典の項を参照のこと)。
旅順攻囲戦を作品の舞台としながらも、主人公を著名な軍人・政治家の描写や活躍に終始せず、戦場で戦う兵士達の思いや葛藤に対しての細かい描写は現在でも評価が高い。
東宝の特撮監督中野昭慶による特撮や戦闘シーンは、中野が得意とする派手な
外為
や炎上シーンに加え、兵士が機関銃等の新兵器により、成す術もなく無残な姿で死んでいくという当時としては非常にリアルな演技や表現が話題を呼んだ。
公開当時、日本が勝利した戦争の映像化と云う事で、一部の教育者や評論家等、また日本共産党の機関紙・「赤旗(現・しんぶん赤旗)」からは、後年公開の「大日本帝国」と同様、「戦争賛美映画」「軍国主義賛美映画」「右翼映画である」と批判された。[1]。
一方第三軍司令部の面子に拘り融通性に欠けた作戦を強行したことへの批判や、トルストイを尊敬し親露的な思想を持っていた小賀武志中尉が、戦いの中で「ロシア人はすべて自分の敵」という台詞を述べるシーン等に象徴させる様に、戦争によって変わっていく普通の人々の苦痛を描写しているシーンが多く、非常に良く出来た反戦映画とも云える。
日露戦争当時は冬季に戦闘が行われたが、映画の撮影は真夏に行われ、しかも旅順要塞の屋外セットが伊豆大島に作られたために、俳優陣は炎天下に冬服を着込んでの撮影に非常に体力を消耗したという。児玉源太郎役の丹波哲郎によると「汗が目立たない様に、顔に汗抑えをたっぷり塗って演技していたが、衣装の中は汗でベタベタになり、ワンシーン終るたびに裸になって汗を拭いていた」とのこと。
^ 主題歌を歌ったさだまさしは、
FX
歌手が戦争映画の主題歌を歌ったということで話題となり、一部の音楽評論家から「右翼的である」と批判された(但し、当映画の主題歌『防人の詩』は、戦場の兵士が故郷への郷愁の思いや戦争への疑問を表現した歌詩であり、戦争を賛美する意味を持つ物では無い)。さだは後に、東宝映画「ひめゆりの塔」の主題歌「しあわせについて」を歌った際、『防人の詩』とは逆に右翼思想家から「左翼的」と非難される事になる
義和団の乱の後、出兵した英、米、仏、独、日、伊、墺の各国は兵を引き揚げたが、ロシアだけは満州に5万の兵を留め、さらに増強していた。日本の再三再四の抗議も成果がなく、遂に交渉は途絶した。1904年1月12日、宮中の御前会議で日露開戦に傾いたが、明治天皇は国交断絶は両国の不幸である、とロシア皇帝に直接電報を打つと述べた。だがロシア政府からの返事は無かった。海軍大臣・山本権兵衛は海軍の即時行動を伊藤博文に進言した。2月5日、日露国交断絶。連合艦隊司令長官・東郷平八郎はバルト海のバルチック艦隊との対決に備えた――。
円谷英二の死
本作は、特技監督・円谷英二が実質的に監督した最後の作品となった。この作品の後、大阪万博・三菱未来館の仕事のロケで体調を崩し、暫く伊豆で静養していたが、1970年1月、心臓喘息から狭心症を起こし、1月25日、遂に帰らぬ人となった。
タイトルの「日本のいちばん長い日」とは、閣僚等が御前会議において太平洋戦争終結を決定した昭和20年(1945年)8月14日の正午(12:00)から、国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じポツダム宣言受諾を知らせる8月15日正午(12:00)までの24時間を指す。
陸軍将校の暴発(「8・15宮城事件」)や厚木飛行場の小園安名大佐の反乱(悩乱)、政府首脳等の苦衷を通して大日本帝国最後の1日を中心に描く。テーマとは別に異常なまでのカットバックとナレーションの多さも映画ファンの間に議論を沸騰させた。今日でも脚本家「橋本忍」論の重要なテーマである。
作者は「一億総白痴」「駅弁大学」などの名言を残した批評家の大宅壮一とクレジットされているが、当時文藝春秋社員だった作家の半藤一利の作品である。俳優陣も三船敏郎以下豪華な顔ぶれとなり、いわゆるオールスター映画とされる。
ラストの青年将校たちが疾走する砂利が敷かれた広場は本物の皇居二重橋前であり手持ちのカメラも含めて撮影許可は下りない場所である。監督の岡本喜八は逮捕を覚悟の上でゲリラ的にロケを敢行したとされる。
戸田および第3代会長池田大作による同名の小説『人間革命』(英語題:"The Human Revolution")がある。創価学会草創期からのエピソードなどを[1]小説化したものである[2]。
戸田の手による人間革命は1951年[3]から、池田の手によるものは1965年の新年号から1993年まで、それぞれ聖教新聞に連載された。池田の手によるものは全12巻の単行本として刊行。さらに池田による続編『新・人間革命』(英語題:"The New Human Revolution")の執筆が1993年11月18日から現在も続けられ、同新聞に連載中[4]。
池田の小説『新・人間革命』の首題は「一人の人間における偉大なる人間革命はやがて一国の宿命転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」とある。 世界各国の言語にも翻訳された。創価学会の発表によると2004年12月現在、『人間革命』『新・人間革命』の単行本の総発行部数は全世界で4000万部に達する。
1973年、『人間革命』のタイトルで東宝と創価学会系のシナノ企画の共同製作で映画化された。1976年にほぼ同じスタッフ・出演者で『続・人間革命』が公開されている。
映画は全国の創価学会の会員の動員もあり、大ヒットを記録。1973年の観客動員数では、『日本沈没』に次ぐ第2位となった。一部では、同じく舛田利雄監督・丹波哲郎主演の映画「ノストラダムスの大予言」と並んで「70年代の2大説教映画」と有名である。しかし、創価学会の布教につながるためテレビ放映は一度もされていない。その後創価学会系列のシナノ企画からビデオが発売されたが、廃盤となって以降は全く公開されず(報道写真を大量に使用し、権利者からソフト化の際の権利を承諾していなかったため)、創価学会の会員でも鑑賞手段がない幻の映画となっていた[5]。2006年にこの映画を観たいという多くの声に押される格好でシナノ企画からDVD発売され、ようやく一般の日の目を見ることになる。